今年も梅雨入りしたが、この季節は、古来、稲作が始まってから
は、実に大切なものであった。
子供の頃からの見聞でも、雨が降りだすと私の両親を含め、農家の
人達は、急いで田植えの準備にとりかかった。その時には、雨を嫌っ
ているような様子は、少しも感じられず、むしろ喜んでいるような雰
囲気であった。
それもそのはず、水は稲作にとっては必須のもので、大切な溜池の
水はそう簡単に使えるものではなかった。それで梅雨の雨を待って、
一斉に田植えにとりかかったのである。
簡単な雨具を身にまとい、夢中になって男は牛を追って田をかきな
らし、女は並んで一斉に田植えをした。子供の自分達もかりだされて、
苗束を運んで田の中に投げ入れたり、また畦塗りを手伝ったりした。
そして、畦に小さな穴をあけ、大豆などを蒔くのは、大抵は子供の仕事
であった。
農民にとって米作りのためには、梅雨は極めて大切な、歓迎すべき
季節であった。もし入梅でも雨が降らないと、大変なことになった。カ
ラ梅雨、日照りという言葉は、米作農民にとっては、実に恐ろしい響き
を持っていた。
雨乞いの行事は、私の記憶にもよく残ってるが、「雲焼き」といって、
薪などを各農家が小高い山の上に運んで積み上げ、大きな焚き火をして
雨を待った。
幸い、久し振りに雨に恵まれれば「雨喜び」といって休養日とするほ
ど喜んだ。 (ページ目次へ)
現在,日本では、ありがたいことに食糧類が豊富に出回り、事欠く
事がない。それが当たり前のように思っている人が多いであろう。
それは、戦後、軍備にあまり金を使わず、勤勉に働き、世界中と仲
良くして貿易を増やし、民需産業中心の経済でやってきたからであ
る。
ところが、戦争中の私達の子供の頃は、そうではなかった。ちょ
っと推察してもらったら、大体わかると思う。
第一、あの膨大な数の軍用の軍艦、飛行機、戦車、自動車などの
武器には、全部、重要な資源か要った。輸送や漁船にまわす燃料な
どが、どれくらいあったか。また、多数の働き盛りの男性が兵隊や
軍需産業に徴用され、生産活動から離れていた。そして、兵隊や徴
用工達は、全部食糧消費者であり、また軍人優先で一般人より優遇
されていた。
輸送の手段は、今と比べて格段に貧弱であった。自動車時代に入
っていた米国などとは雲泥の差で、近辺では、大抵、牛に引かせる
荷車が主。遠方からは、鉄道と船が主であった。
その船が燃料、要員不足であり、軍用に徴用されていたものが多
かった。
道路など、戦争開始ごろは、全国で、江戸時代の幅の狭い街道が
未だ主要輸送路として使われている所が多かった。
紀北地方の国道24号線は、ようやく1940年頃から軍事用も意識
して工事が始められた程度。その道路も所々で途切れていて、今の
一貫した道路とは、程遠いものであった。
舗装については、都会の中を除き、国道すら戦後米軍に道路予定
地と皮肉られたような粗末なものであった。
〜 〜 〜
当時、農民達は、可能な限り2毛作で米麦の増産に励んで国に供出
した。それに、洪水で流されてしまう川原の砂地にまでサツマイモや
南瓜を作り、主食の補いとした。
それで空襲などない頃は、まだ食糧は主食に関しては、配給ながら、
まあまあ食べられた。
しかし、魚肉類の供給は、戦況が悪化するにつれて減っていった。
私など、刺身や牛肉のスキヤキというものを食べたのは、戦後になっ
てようやくという次第。
食糧危機は、空襲が激しくなってきたころから、全国的にひどくな
ってきた。特に、都会の非農家の人達は、配給も途絶えがちで、そ
の日その日の食べ物にも不足した。
金があっても買う物がなかった。そして、どん詰まりの敗戦となり
戦 後を迎えるわけであるが、疲弊し尽くした経済では、終戦前後が
最も食糧が不足した。
農家でも、麦、サツマイモや南瓜などを混ぜて食べたが、幸い自分
の作ったものを食べられたので、私自身は、空腹の経験はなかった。
しかし、魚肉類、砂糖、油脂などは、極端に不足していた。
(これらの自給の手段については、また後日談とする。)
戦災、食糧難、失業と重なり、特に都市の人達は、食べ物を求め農
村に殺到した。交換できる物があれば、まだよかった。無ければ飢え
死にを待つばかりであった。特に終戦前後の「食糧の買出し」の人々
は、自給のため、商売のためとを問わず、鉄道沿線の農家に殺到した。
当時、柿さえ盗んで食べる人もあった。役牛が夜盗まれ、農作業に
差し支える農家も出てきた。 (ページ目次へ)
・
3.食糧の買出しの人々
食糧買出しの人たちは、戦災後の都会からドッと田舎に繰
り出してきた。これは、戦中、戦後の食糧不足の時期を通じて、相当
長期にわたり行われた。
貨幣価値は、当然地に落ちている。それに金があっても、店には食
糧類は売っていない。人々は生きるために、必死になって食糧の確保
に努めた。それが、主に鉄道などを利用した農村への「買出し」であ
った。
私の住んだ九度山町にも、大阪方面から南海高野線を利用して大勢
の買出しの人達が毎日、九度山駅に降り立った。自分や家族のため、
また商売のためにであったが、口に入れられるものなら何でも買って
いった。
都会では、とにかくその日の食糧に追われていた。家族全員でやっ
てきて、そこで買ったもので一食の腹を充たす人達が多かった。大部
分の人は、栄養不足で顔色がさえず、痩せてひょろひょろしていた。
私の家では、富有柿やサツマイモ、南瓜、ジャガイモなどが主に求
められた。米麦は、食糧統制で、簡単には売れなかった。農家自体も
自家消費分がやっとで、半分はサツマイモなどで補っていたくらいで
ある。
毎日のように、食糧を売ってくれるようにと嘆願された。少しでも
何でもよい、と頼まれ、親達は、売るものがないときには気の毒だが
断るのに苦労していた。
収穫した富有柿を積んだ荷車が家に着くと、人々がワッと取り囲ん
で売ってくれと集まった。止む無く、家の前で少しずつ秤で計り、な
るべく大勢の人に行き渡るよう分けて売ってあげた。
その場で食べる場合は、熟した柿でも何でもよかった。家族で来た
人たちは、その場で皆で熟し柿を食べ、その日の食料としていた。そ
して、帰りには、食べられるものなら何でも買って帰った。
さて、いろんな物と交換してほしいという場合も多かった。衣類、
塩、時計、軍用の靴や衣服、飯盒など、はっきり覚えていないが何で
も持ってきて、交換してくれと言った。
..... ...... .....
ある日、乳飲み子を背負った女の人が、家に入ってきて、サツモ芋
を茹でさせてくれ、ということであった。カマドが丁度空いていたの
で、どうぞということであった。
見れば、どこかのイモ畑で堀り残しを拾ってきたのか、ほとんどス
ジばかりの細いイモを鍋で茹でていた。そして、それで腹を充たすや
帰っていった。
あまりに気の毒であったので、親は、何かをあげていたようである
が、詳しいことは忘れてしまった、、、、。 それ程、都会の人々の
食糧は不足していたのである。
(ページ目次へ)
*
戦争(1941〜1945)でタンパク質や脂肪を含む食品が不足してきた。
鶏は、穀類を飼料とするので、あまり多くは飼えなかった。それでウ
サギの飼育が盛んになり、わが家も 一坪ほどの飼育場を作り、白ウサ
ギを飼うようになった。
ウサギは、食べ物(主に青草)さえ豊富であれば、どんどん繁殖し
その肉は食料に, 毛皮は防寒具にと利用された。町場では、業者が毛
皮と交換にウサギをさばいてくれたそうである。ちなみに我が家では、
父がウサギをいつもさばいた。
しかし、我が家の飼育数は格段に多く、時には20羽を越える事があっ
た。さて、そのエサの草刈であるが、国民(小)学校生(2,3年生から)
の子供であった私の仕事として父親に命じられた。
父らは毎日、農作業は勿論、特に牛の飼育に追われ、ウサギどころで
はなかった。(もちろん、他の子供らも、皆それぞれの自分のできる
仕事を割り当てられていた。炊事、風呂焚き、水汲みなどと。)
私は、毎日学校から帰ると、かなり大きなカゴ(土地では、イモホ
リと呼んだ)に一杯は、必ず刈らねばならなかった。それは、年中の
仕事であった。冬の青草の少ない時期でもウサギたちは腹を空かせて
待っていた。
もし、私が遊びほうけて、ウッカリ草刈りを忘れでもしていたら大
変なことになった。父にバレナイように、薄暗がりの野山へ走って行
って、どうにか工面してカゴに一杯草を刈ってきた。
私は、長年の慣れも手伝い、どこら辺にどんな草があるか、また非
常のときには、どこの野山や谷間に飼料に向く草があるか、大体わか
っていた。
しかし、不思議と草刈りでマムシ(毒蛇で土地名、ハビ)に噛まれ
なかったのは、幸いであった。噛まれれば、戦争中のこと、命にかか
わったかもしれない。
もし、草を刈っていないのが、父にバレると、てきめん、夕食は後
回しであった。ウサギに餌を与えないでは、勿論ほおっておけない。
彼らは家の裏で夜中に皆で大きな音をたてて騒ぐので、家中が眠れな
かったのである。それで、夕暮れの暗闇の中での草刈りとなった。
しかし、どうしても工面できないときは、父が牛の飼料に毎日刈っ
て帰る草の中から、柔らかそうなのをそっと失敬して与えた。父は、
見て見ぬふりをしていた。
ある日、草刈りを忘れ、仕方ないので、裏小屋に蓄えている人間様の
重要食糧である南瓜やサツマイモを、コッソリ与えた。それらは、ウサ
ギの大好物でもあった。ウサギ達はバリバリと大きな音を立ててムサボ
リ食った。しかし、その音で私の怠けがバレて、大目玉であった。
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5.(^-^)
カンやんとこの洋食など
幼少時代に親から小遣い銭をもらって、駄菓子店で買い物をした楽し
い思い出は、各人が心のどこかに残していて、時々は、懐かしく思い
出すものである。
私達の幼年期には、一銭銅貨といって、今の十円と同じよう形のもの
が子供に気安く与えられる小銭であった。1940年前後は、まだ太平洋戦
争が始まっていなかったので、一銭貰えば、飴玉が一つか二つ買えた。
さて、戦争が始まるやガラリと一変、駄菓子店から菓子類が急速に消
えていった。私自身、うっすらとであるが、戦前の様子、饅頭店には薄
皮饅頭などが、またポテト屋にはあの揚げ立てのポテトが、焼餅屋には、
平らなのや回転焼きなどが並んでいるのを覚えているだけに、いろいろ
美味しいものが店から次々と消えて、淋しく味気ないものであった。
そんな殺風景な中で、九度山商店街の「カンやんの店の洋食」だけは、
戦争中も細々ではあったが営業を続けていて、食べ盛りの少年期の私た
ちに楽しみを与えてくれた。私とほぼ同年輩の九度山町西部の出身者な
ら、誰でもそのことを知っているだろう。
。 。 。
商品の少なくなったカンやんの駄菓子屋の入り口には、洋食を焼く台が
あった。そこでかなり年配の(子供からはそう見えたが、まだ40歳前後
だったか)髪の薄いカンやんが、手サバキよく「洋食」を焼き上げる。そ
れを見るだけでも、もうかなり食欲がみたされる感じであった。
色よく焼けこんだ焼台の上に、まず油を薄く塗り、次いで丸い杓子です
くいあげたウドン粉の汁を丸く、薄く、大体直径12,3センチくらいに上手
に広げる。
大体焼けたところでひっくり返す。そして、その上に細かく切ったネギ
やコンニャクを煮しめたものなどを振りかける。さらに上に薄くウドン粉
汁をかける。
(そのころには、湯気が立ちのぼり、ジュジュと音をたて、たまらなく
良い匂いがただよう。)またひっくり返し、うまく焼けたところで、醤油
の薄めたものをさっとぬり、平らなヘラですくい上げ、小さく切った新聞
紙につつんで、ハイどうぞと渡してくれる。
その美味しさは、失礼だが、その後の何物にも比較できないくらいであ
った。戦争中の物資不足の時期、今のお好み焼のような豪華極まりないも
のに比べ、具なども質素な、また薄っぺらいものであったが、カンやんの
手で焼きあがった「洋食」は、自分ら子供には、この上なく美味しいもの
であった。
その後、戦争が激しくなってきて、カンやんがいつまでその店を続けら
れたか、はっきりと覚えていないが、戦争中もかなり後まで、その周辺の
子供達に美味しい「洋食」を味わわせてくれた。
その後ずうと、カンやんの店を思い出す度に、いつもあの美味しいよい
匂いがどこかから漂ってきて、懐かしく思う。 (完)
(ページ目次へ)
6.
戦時中の砂糖や食用油の自給
太平洋戦争中(1941〜1945)から敗戦直後にかけて、基本的な食糧が極端
に不足した。国家総動員法により、主要食糧が配給制となり、軍隊や軍需
生産への優先的な食糧供給とあいまって、民間での食糧不足は当然であっ
た。
中でも、穀物は勿論、砂糖、食用油などは、一般には極端に不足が
ちであった。穀物不足を補うためのサツマイモやカボチャの生産について
は、また後日談として、ここでは砂糖と菜種油の自家生産の苦労話を、少
し思い出すままに書いてみる。
+ + +
どうにかして、砂糖や油を家で作れないかと、江戸時代以前の自給自足
生活のように家族で工夫をしはじめた。富有柿の熟柿を煮詰めてのジャム
は、作っていたが、よい調味料にはならない。
それで、材料の甘蔗(さとうきび)や菜種は、農家であるので作れるの
で、それを絞って作ろうということになった。
兵隊から一時除隊で帰っていた次兄が、中心となっていろいろ工夫した。
以前、蚕飼いのときに使った練炭製造用の鉄の型枠や、建築用の大型の
ジャッキが家にあり、それを利用して、絞り用装置を作ろうということに
なった。
裏庭に頑丈な木製の枠を作り、それに上記の器具をとりつけた。建築用
のジャッキを逆さまにして、筒型の鉄枠の上に置いた。必要は発明の母、
窮すれば、何でも役に立つものである。
まず甘蔗を細かく裁断し、カラ臼で細かく砕き、それで絞り汁を作った。
そして、煮詰めるのであるが、何ぶん、ちゃんとした技術がない。販売し
ていた粉状の砂糖は、とてもできなかった。が、まあ、それに代わる甘い
糊状のものができて、味付けに利用した。
+ + +
さて、菜種油の製造であるが、これがまた、技術不足。上記の砂糖作り
と同じような感覚でやり始めた。カラ臼で細かく砕き、それを型枠に入れ、
皆で懸命に締め付けて油がで出てくるのを待った。
しかし、いくら強く締め付けても出てこない。何回やってもダメ。これじ
ゃ、とても油にならず、木の枠がつぶれてしまう。素人の悲しさ、我々一同、
途方にくれた。
さて、どうするか、、思案にくれて、長時間苦しんだが、いろいろ考えて、
試しにその細かく砕いた菜種を、糯米を蒸すように蒸してみようということ
になった。
これは、どこから来た知恵か今では思い出せないが、近所の長老に、昔の
農村での技術を思い出してもらったのかもしれない。
蒸した熱々の菜種の粉を例の絞り機に入れて、ちょっとジャッキを絞った。
とたんに油がドット滲み出て、あたりにあふれた。
あの時の我々の喜びは、例えようもないくらいであった。
油絞りの専門家や昔の自給自足時代の人達に言わせれば、常識的なこと
だったかも知れない。しかし、何分、田舎の農村で知識不足ですること。ま
あ、試行錯誤でやるよりほか、仕方なかった。
後で気づいたのだが、よく見に行った近所の林産化学という松根油を作
っていた工場では、大きな釜で木の根を粉砕したものをボイラーから蒸気
を送り、蒸したうえで油を採っていたようだ。それにもっと早く気付くべき
であった。
+ + +
ということで、戦時中の物不足というのも、まんざらマイナス面ばかりで
はなかった。不足を補うべく、いろいろ皆で工夫し努力した経験は、何でも
金で不自由なく手に入るという時代にはない、何物にも換え難い「生きてゆ
くための智恵」を、子供の私に残してくれたように思われる。
以上、戦時中の食糧不足の折に、自給に苦労した体験を少し披露しました。
(05/6/10)
7.
川原に降りた戦闘機など
戦時中(1943年前後)、九度山町慈尊院の紀ノ川川原に小さな飛行場が作ら
れていた。飛行場といっても、川原をならしただけの石ころだらけの粗末な
滑走路一本のものであった。
周囲は芋畑ばかりであったが、多分そこだけは軍の命令で、食糧生産の畑に
せずに軍用機の不時着用と教育訓練用に飛行場としていたようであった。
そこで、国民学校高等科の生徒達がほぼ毎日といってよいくらい、作業や
グライダー(当時は、滑空機と言っていた)の実習に行っていたようである。
ある日、その川原の飛行場に小型の軍用機が不時着(?)した。私の記憶で
は、2度ばかりあった。最初は、赤トンボと呼ばれていた練習機であった。
次は、実戦用の戦闘機であった。
田舎の国民学校児童とて、普段、空を飛ぶ飛行機はよく見ていたが、実際に
身近に静止したものを見るという機会がなかったので、皆、それっとばかりに
見物に出かけた。
それは、本当の不時着であったかどうか聞き逃したが、見物していた私らが
感じた雰囲気からは、どうやら不時着であったようだ。
赤トンボは、どうして帰ったかわからないが(分解してとかと話していたか)、
戦闘機は、後日またあの狭い飛行場から飛び立ち帰っていった。
〜 〜 〜
戦争中のある日、国民学校の全児童が参加して見守る中、その川原に飛行
機に綱で牽引されたグライダーが飛来して着陸した。
それは、飛行機熱を児童らに植え付けるための軍の教育宣伝の行事であった
ようである。
遥かに和泉山脈の上を、西方面に向かって一機の複葉機が一機のグライダー
を引っ張ってが飛んで行き、やがて私達の上空にやってきて旋回後、その川原
に着陸した。
そのグライダーは、普段その川原などで訓練用に使われていた簡素なもので
はなく、本格的な機体のものであった。
私達の上空で、牽引ロープがはずされ、飛行機が先に着陸した。その後、
グライダーは空中でいろいろな曲芸飛行をして、私達を感心させた。宙返り
というものをしたときは、皆、歓声を上げて見入ったものである。
相当な長時間を空中で飛行したのち、グライダーは滑るように滑走路に
着陸した。
筋金入りの戦時教育を受けた軍国少年で、いつか戦闘機に乗って空中戦をと
夢見ていた児童達は、目を輝かせてそれらのショーに見入っていた。
整備兵のきびきびした動作、搭乗の飛行兵の勇姿、正に軍事教育の成果満点
の見せ物であった。
当時、旧制中学などでは、盛んに海軍飛行予科練習生の募集が行われていたが、
私ら児童もその年齢に達すれば応募確実の雰囲気であった。
〜 〜 〜
それとは別の話だが、戦時中のある日、九度山国民学校で授業を受けていた
とき、一機の双発の軍用機が学校の上空に飛来して、轟音を立てながら何回か
旋回した。
私達は、授業をそっちのけにして、運動場に飛び出し、その飛行機を追い
かけながら手を振り、歓声を上げて走り回った。
後に学校へその搭乗飛行兵から便りがあった。講堂での全校集会での校長
の話として、地元出身の飛行兵が郷里の学校を空から訪問したとかいうことで
あった。私らは、大いに感激したものであるが、軍は、そんな形で教育宣伝
の活動をやっていたらしいのである。
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