遊びの種類の少なかった私達の子供時代で、夏は、水泳、水遊び
と決まっていた。後には、農業用の溜池でも泳いだが、大体は、主
として川が利用された。紀ノ川やその支流の丹生川が、その地域の
子供たちの夏の泳ぎ場、遊び場であった。
今では、水泳禁止になっていて、子供の姿を全然見かけないが、
以前は、夏になると川のあちこちから、子供たちの喚声が聞こえて
きた。
(写真は、 紀ノ川と丹生川の合流点
付近。手前は、九度山橋。右奥は、
丹生橋。向こうは、高野山系.)
学校から帰ると、また夏休みには
昼飯を済ませると近所の子供連が、
申し合わせたように川に集まった。
泳ぎに適した場所には、毎日大体
同じ顔ぶれがやってきた。
泳ぎのできる年長組は、深みのところで、年少の初心者は、浅
い水際というふうであった。
さて、大分以前から九度山の学校では、水泳が盛んであった。
戦争中は下火になっていたが、水泳の得意な子供は特に学校で
選手としての養成を受けた。学校下の丹生川を堰きとめたダム
が水泳用プールとして利用された。
伊都郡の大会でも、近辺の小学校との競泳でいつもよい成績
を収めていた。周囲が川に囲まれているという環境から、小さ
い時からの水遊びを通じ、自然と子供たちに泳ぎの能力がつい
たのであろう。
〜 〜 〜
ある夏、私が小学校に上がる前の小さい頃であったが、姉に
付いて泳ぎに出かけた。いつもの丹生川の橋の下の深みである。
泳げない私は、浅瀬で遊んでいたが思わず深みに足を取られ
た。夢中で水中でモガいていた。自分でももうダメかという意
識がした。
その瞬間、体が水中から持ち上げられ助けられた。私は、ヘ
トヘトに疲れて、川原でなぜか泣いていた。
助けてくれたのは、年長の女の子で顔をその時は、覚えてい
たが、後に忘れてしまい、とうとう礼をいう機会を逸してしま
った。それを今でも悔んでいる。
相当泳ぎの得意な子のように見えた。あの素早い身の動きか
ら察して、どうも学校の選手であったように思われた。そうと
すれば、九度山の水泳の盛んさが私の命を救ってくれたのであ
る。それには、今でも感謝している。
この件につき、私の姉は、親にひどく叱られた。子守りとい
うのは、その意味では大変重要な仕事であった。幸い年長の子
供と一緒にいたから、助かったのである。
当時そんな風にして、溺れる子供がよくいた。しかし、大抵
は、年上の子が救助した。
私自身も後に溺れた子供を助けたことがあった。誰か忘れた
が、そんなことは、川では、日常茶飯のことであったらしい。
しかし、たまには周囲に年長者がいないという運の悪い子供は、
救助が間に合わず溺れ死んだ。
「一人で泳ぎに行くな」とは、泳ぎに行く時の禁止項目にな
っていた。
〜 〜 〜
後日談だが、私は、溺れた直後から不思議と水に浮くようにな
った。これは、全く自分でも不思議であった。犬カキであったが、
以前は、足の届かぬ憧れの深みへも平気で行けるようになった。
あの溺れは、私の人生にとって、まさに命をかけた水泳技術の
習得であったといえる。 (ページ目次へ)
私の育った高野山麓の農村には、水田のため潅漑用の小さな池が 多い。これは、日本中の山村では、ありふれたものである。稲作に は、重要なものでその管理は、とても厳重であった。地区で担当の 役員が決まっていて、水引きについては、厳しい決りがあった。 これは、水田が減ったとはいえ、今でも同じであろう。 しかしまた、小さな子供達にとっては、極めて危険な場所でもあ り、親は池の近くで遊ぶことについては、いつも神経を使って子供 に注意していた。 カッパの話は、九度山地区では聞かなかったが、「ガタロ」に引 き込まれるという話は、いつも聞かされた。これは、川ででも同様 であった。 その池での楽しみは、第一には、釣りであった。主に鮒つりで、 鯉は、権利関係もあって、勝手に釣ってはいけないようであったし、 子供にはなかなか釣れなかった。 次いで泳ぎである。池で泳ぐのは、極めて危険であったので、九 度山のような周囲を川に囲まれた地方では、普通は、あまり泳がな かった。しかし、相当泳ぎに自信ある腕白の男の子達は、時には池 でも泳いだ。 ... ... ... ... 池の水は、川の水に比べて変にナマぬるく、また深くて底が知れ ないために、泳ぎに自信があっても気持ちのよいものではなかった。 やはり、子供なりにどこかに恐怖心があったようである。 小学の高学年の生意気盛りになると、池の底深くに潜ったりして 遊んだ。深みの水温は、表面のより相当低くて冷たかった。そのせ いで、何か気味の悪いものであった。 時には、水引き用の樋の近くまで潜っては、子供同士でふざけ合 ったりした。そんなことが大人に知れたら叱られること請け合いで あった。悪戯盛りの子供の遊びは、時には身の危険と隣あわせのこ とがよくあった。(私らの九死に一生の遊びは、他にも数例あった) しかし、私の見聞では、私の地方で池で溺れた子供の話は、一つ もなかった。それだけ、子供なりに気をつけていたようである。 (ページ目次へ)
現在では、自転車に乗れるのは、一般の子供であれば、ごく普通の
ことのようである。それに、自転車の値段が、戦争中の私達の子供の
頃(1941〜1945年頃)に比べ、格段に安くなっている。
これは、民需品の生産が盛んで、大人用はもちろん、子供用の三輪
車や自転車でも幾らでも割合低価格で手に入る。平和と生産力のお蔭
である。
また戦争中を持ち出しての話だが、私たちの子供時代の田舎の農
村では、自転車は、その収入に比べ高価なものであった。そして、全
体として各戸の自転車の保有の割合は、極めて低かった。それは、全
体の生産力が低かったのと、やはり軍需生産と関係があったと思われ
る。鉄鋼を用いることは、共通だから、当然であろう。
それに、一般にも自転車に乗るという意識があまり高くなく、特に
女性は、子供の頃から自転車に乗ることを教えられることが、少なか
った。一般に人々は、「歩くこと」を当たり前のように受け入れてい
た。
私の両親も自転車には、無縁であった。その頃の近所の同年配の人
たちは、殆どが「歩き」専門。どこへ行くのでも歩く。町内や隣の町
へは大抵は、てくてく歩いていった。
勿論、鉄道は、利用していた(バス便は、ごく少なかった)。しか
し、鉄道の駅までは、歩くのが常識。駅からはどんな道程でも、足を
使うのが普通であった。人々が歩かなくなったのは、戦後の1960年頃
からであろうか。それまでは、たとえ、自転車に乗れても、3〜5キロ
ぐらいの通学、通勤、用事などは、大抵歩いていた。
・ ・ ・
ところで、戦争が激しくなる前、つまり私の兄らが少青年期を送る
頃(1930年前後)には、男の子には、自転車を買い与え、乗らせたよ
うである。それだけ、物資が豊かであり、自転車の便利さが意識され
てきていたのであろう。
道理で、私の家の蔵には、召集されて軍隊にいた兄らの、乗り古し
たガタガタの大人用自転車が2台しまい込まれていた。
さてさて、これからが私の自転車乗りの苦労話である。
私は、戦前の兄姉の多かった家族の末子、親には長子にするように
いろいろと構うということが少なかった。まあ、どこの末成りも似た
ようなものであったろう。
衣服などは、兄らの着古しが普通で、同様に自転車なども時代の物
資不足のこともあり、子供用を買い与えるという気がまず無かった。
もちろん、街場や近所には、希に新しい三輪車や子供用自転車を買っ
てもらって、乗っている恵まれた長子の子がいた。しかし、一般には、
それは珍しいことであった。
それに、親自身が自転車に乗らないから、子に自転車を無理にでも
習わそうという気があまりなかった。
・ ・ ・
当時の子供は、習い始めから大人用自転車で練習する子が多かった。
つまり、大人用自転車に横乗りといって、サドルに腰掛けずに、ハン
ドルを両手で持ち、左右の足でペダルを立ったままでこぐのである。
または、かなり乗れるようになると、サドルにまたがるが、足がペ
ダルに届かないので、両足で交互に下に蹴るようにして乗っている子
がいた。
そんなのを見慣れていた私は、8、9歳ぐらいの時であったか、近
所の年上の男の子らが自転車に乗っているのを見かけるや、自分もど
うにかして乗りたいという気がしてきた。
さてその自転車だが、蔵にある26インチのガタガタのほうに目を
つけた。(もう一台は、27インチで子供には高くでダメ。)車体は、
錆び、がたつき、タイヤは、存分にスリ減っているが、まだ動く。そ
んな中古でも、家にあったのは、幸いであった。
それを引っぱり出し、自転車屋にもっていき、パンクを張り、どう
にか動くようにしてもらった。
〜 〜 〜
幼児用三輪車や子供用自転車と乗り継ぎ練習すれば、自転車に乗る
ための平衡感覚は、比較的容易に身に付く。それが、一歩遅れて大人
用で練習するとなると、8,9歳の子供でも相当に苦労する。私がその
よい例であった。
(私の子供達は、適当な年齢にその段階を踏ませたので、皆あまり
苦労しないで、自転車乗りを覚えてしまった。)
もちろん、私の姉達もかなりの年齢で大人用で練習したので、大そ
う苦労していた。後に、2人の姉は、とうとう乗ることを断念し、3番
目の姉だけが、苦労の末、30歳近くになってようやく乗れるようにな
た。
今の人達は、自転車くらいと笑うかもしれない。簡単に思えるのは、
よい時代に生きているからだ。生育環境が悪く、練習の時期を逸すれ
ば、あの平衡感覚を身に付けるのは、年齢とともに困難度が増す。
今の中高年の大人で、一輪車に乗れる人が果たして何人いるだろう
か。私自身も、試してみたが、まだ乗れないでいる。
・ ・ ・
私は、子供の頃のある時期、大人用自転車で練習を開始した。学校
から帰ると、毎日のように家の前付近で練習した。ハンドルを両手で
持つと、頭が上に出るだけくらいの大きな、重い自転車である。
まず、左のペダルに左足一つを乗せただけで走る練習。それが、な
かなかうまくゆかない。何回も倒れる。古いガタガタ自転車であるの
が、幸いした。少々、倒れても割りと遠慮がいらなかった。
とにかく、何回倒れても倒れても、挑戦である。毎日、毎日練習し
た。あの段階で、もし諦めていれば、私の自転車歴は、ずうと遅れて
いただろう。1、2米走れるようになるのに、私の記憶では、気が遠
くなるほどの倒れと時間がかかったように思う。
・ ・ ・
ある日、家の東にあるなだらかな坂で練習していて、倒れた自転車
と共に道端の深さ1メートル余りの小さな溝に転落した。倒れこんだ
瞬間、私は、溝に中にスズメが一羽、石垣の間にいるのを見つけた。
私は、やはり子供、そのスズメをつかまえるのに躍起になって、自分
が倒れこんだことを忘れていた。
一緒にいた近所の子供が、その転落を私の家族に急報してくれて、
助けにきてくれた。そのとき、私が怪我どころか、スズメ、スズメと
必死になって追いまわしていたので、皆びっくりして、あきれはてた
とか。これは、一つの笑い話となって近所中に広まり、後々までよく
語り草にされたようである。
そのときは、子供の身軽さか、運良く怪我は軽くすんで、スズメの
笑い話を作っただけであったのは、幸いであった。
・ ・ ・
ある日、父が私の自転車の練習を見ていたが、あまり度々倒れるの
で、自分は乗れないのに私に替わって乗ろうとした。父は、気性の激
しい負けん気の強い人であったので、私によい手本を示したかったの
かもしれない。
しかし、乗れないものは、乗れない。私の前で、父は、どっと自転
車とともに倒れた。それ以来、父は二度と私に替れとは、言わなかっ
た。子供の私に、父としていい格好を見せたかったと思うが、それを
できなかったのは、父としての権威にもかかわり、哀れであった。
どんな人でも、ある大事な成育期に効果的な指導環境がなければ、
自転車乗りのような簡単と思われる生活技術も身に付かない、その見
本を、口惜しい思いをしただろう父に見たのであった。
〜 〜 〜
その後、倒れにめげぬ猛練習の成果が徐々に出てきて、少しずつ片
足立ちで乗れようになってきた。なだらかな坂を5米、10米とペダ
ルに片足を載せ、走り下れるようになってきた嬉しさは、なんとも言
えず、私は、学校から帰るなり、毎日例のガタガタの自転車を走らせ
た。
一たんバランス感覚が身に付くと、人間の体は不思議である、どん
どん走れるようになってくる。近所の人達も私の自転車を倒す練習を
毎日見ていたので、「健ちゃん、最近こけらんと、走れるようになっ
てきたなあ」と祝福の眼で見てくれるようになった。
そして、右足を車体を横切って右のペダルに乗せ、スムースに回転
させて走れるまでには、まだ相当な日数が要った。しかし、とにかく
倒れないで走れる快感を味わうと、もうやめれない。そしてどんどん
上達していった。
やがて、嬉しさ一杯、近所の子供の自転車連れと、だんだんと遠
くまで乗っていくようになり、ついには、伊都郡中を自転車で一周す
るという冒険までするようにまでになってきた。
今の道路状況から考えると、子供の自転車グループで国道を走っ
たり、九度山町から橋本市やかつらぎ町の西端あたりまで行くのは、
極めて危険であろう。
それが、戦争中の話。国道さえ貨物自動車が走るのは、1時間に一
台くらい。他は全て、牛などに引かせた荷車か自転車、歩いている人
くらいであったから、交通に関しては、今では、想像がつかないほど
安全であった。
それより恐いのは、その頃普通であった石ころの多いデコボコ道で
の転倒と、タイヤのパンクであった。
・ ・ ・
かくて、私の人生に自転車が登場してくるのであるが、「たかが自
転車、されど、、」である、この身に付いた平衡感覚がその後の乗り
物の運転技術の基礎になった。これは、他の人々においても、同様で
あろうと思われる。
成人しても、自転車は勿論、バイク、自動車好きと発展していくの
であるが、まだ、船や飛行機の操縦にまで及ばないのは、残念なこと
である。少し遅れた時運に恵まれ、軍艦や軍用機の操縦をして戦死す
ることなく、今まで生き延びさせてもらったが、乗り物としては、自
分で動かしてみたいという希望は、持ち続けている。
年配者の域に達し、その夢が成就するのは、少々危なくなっている
が、機会があれば、といつも子供の頃のように思っている次第。
・ ・ ・
子供の私が、自転車に乗れるようなったことで、両親らは、とても
便利な御用聞きを手に入れた。身軽な私は、親の言い付けで街への買
い物、親戚との付き合いなど、あらゆる用事で毎日のように自転車を
走らせた。
足でこぐとは言え、自転車の機動力は大したものである。3〜5
キロくらいは、朝飯前、遠くは、10〜20キロも国道などを走って
用事をした。自転車に乗れない両親に代わって、いろいろな家の雑務
をこなせるのは、やはり苦労して自転車を覚えた成果であり、子供な
がらに嬉しかった。
+ + +
私は、その後もずうと生活の中で自転車を愛好し、できるだけ足腰
を強くするように努めてきた。バイクや自動車をできるだけ使わず、
なるべく自転車をという志向は、今の歳になるまでもずうと同じであ
る。
その上、忘れてはならないのは、燃料を使わず、空気を汚さない乗
り物である点である。地球温暖化とは、皆知っていること。しかし、
地球上の一人一人が、できるだけ化石燃料を使わないようにすること
以外に、それへの対策はどこにあるのか。
さて、自転車の成果か、その後ダンスのような激しく足腰を使う運
動にでも、スムーズに入っていけたし、別に好きでやっていた散歩
(今流では、ウォーキング)と相まって、身体全体の機能を順調に保つ
上でも大いに役立ったのではないかと思う。
私の子供達にも自転車や歩くことを勧めているが、今の若者達は、
つい便利な車に頼ってしまい、足腰を弱め、空気を汚しているのは残
念なことである。
一般にも、機動性もあり、よい運動になり、環境にもよい自転車
をもっと愛用してほしいと、常々思っている次第。
「温暖化防止と健康は、自転車と歩くことから」という信念は、ず
うと変らないし、私自身が今も生活の中で実践に努めていることでも
ある。 (完)
ページ目次
終戦の、前か後(1945年頃)か、はっきりと覚えていないが、私は、 九度山国民(小)学校の担任先生の指名で新聞の配達をしなければ ならなくなった。新聞配達は、朝早く起きて登校前に全てを終えなけ ればならないキツイ仕事で、当時でも希望者は少なかった。 当時は、小国民も、銃後の戦いとして国のために尽さねばならな いという意識は、常に持っていた。先生としては、単に懇意な新聞販 売店に頼まれただけかもしれないが、子供は、指名されれば天皇陛下 の命令のようで、先生の命令には、絶対服従であった。 私の実社会での厳しい体験は、配達の初日から始まった。配達先を 覚えるには、前に配っていた前任者に教わらねばならなかった。販売 店は、そんな仕組みにしてあり、全て指導は子供に任せきりであった。 私は、朝の暗闇の中、心配顔の母に眠た目で送り出された。朝5時 頃、同級生の前任者と街角で待ち合わせる約束になっていた。寒さに 震えながら、防空頭巾をかぶり待っていた。 しかし、いくら待てど彼は来ない。夜が明けてくる。このままじゃ、 配達どころか学校に遅れる。 私は、待ちくたぶれて、とうとう迎えに行くことにした。1キロほ ど歩いてその子の家に着いたら、まだその同級生は寝ていた。配達の 仕事がなくなり、ホットして寝過ごしたらしい。 急いで、2人で4キロほど離れた販売店に走った。配達の道順、家、 新聞の置き場所、新聞の種類などを教えてもらいながら、どうやら1 日目を終えた。しかし、学校は、遅刻したと思う。 1日では、なかなか覚えきれない。90軒ほど配ったと思うが、2 回位は教えてくれたよう。しかし、その子も退職後のこと、あまり熱 意がなく、十分覚えきれない内に指導は打ち切られた。当時は、自転 車を使わず、一周自宅まで帰るのに8キロ程小走りであった。徒歩のほ うが小回りがきき、都合よかった。 ・ ・ ・ さて、充分に教えてもらえなかったツケは、すぐにやってきた。最 初の1週間ほどは、全くの恐怖であった。 配り終えても変に新聞が余る。これは大問題であった。当時は、物 資不足で余った分などあるはずがなかった。きっちりした部数でもら ってくる。それで余る。どこかに配り落しがあるはず。 しかし、新米の悲しさ、あまり余りを気にしなかった。次の日に配 りに行くと、きっとそこの人が家の前で待っていた。そして当然大声 で叱られた。 そんなことがしばらく続き、ようやく板についてきたと思ったら、 次の恐怖が待っていた。 当時の新聞は、せいぜい今の1ページ分ぐらい、ひどい最低のとき は、そのまた半分のときもあった。(興味のある人は、図書館で終戦 前後の新聞を調べてほしい。) 、また、紙は極めて弱く、ちょっと強く引き抜くと、すぐ破れた。ひ どい時には、脇に抱えていて、引き抜きざまに半分にビリッと裂けた。 さて、代わりを持っていない。どうするか。とにかくそれを配らね ば仕方ない。また、その家の人の怒った顔が目の前に浮かぶ。でも仕 方がない。目をつむって放り込み、一目散に走り去る。 理由を言って謝る勇気が、子供の私にはなかった。恐怖が先に立っ てしまったのだ。 忘れで、大分叱られ慣れてはいたが、やはり翌日はその家に近づく のは、足がすくんだ。 案の定、家の前で待っていて、烈火のごとく叱られた。しかし、そ れだけのワケがあるのだから、当然であった。私は、ただ謝るばかり。 そういう経験が、数回はあった。 60年以上もの昔のこと。今も鮮明に覚えているのだから、余程つ らいことであったようである。 …… …… …… 当時、人々が新聞を待っていたのには、理由があった。今のように 情報がどこからでも入る時代ではなかった。ラジオもあったが、各家 にあるわけではなく、新聞が重要な情報源であった。毎日、ページ数 の少ない新聞を待ち、貪るように読んでいる人が多かった。 それを配られない、破れたものを配られる、人々が怒るのは当然で あった。私が10歳足らずの子供のシンマイ配達人にしても、そんな大 切な仕事を充分にできなかった罰は、当然甘んじて受けなければなら なかった。 その後、成人した後、私は、自分の家に配られる新聞につき、どん なことがあっても、配達人に小言が言えなかった。英文紙など部数が 限られ代替物がないことは、経験者にはわかりきっていた。それが、 しばしば破られて配られることがあった。 家内は、仕事のきびしさを知ってもらうために、一度販売店に連絡 したらと言ったが、私は、唯の一度も、絶対にそれはできなかった。 配る人が、その破れの痛みを一番よく感じていることを、体験から知 っていたからである。 私は、何月か配達を続けたが、早起き朝がけで疲れが出たのか、目 が痛む病気になり、親にもとめられ止むを得ず配達を断り、次の同級 生の指名者にバトンタッチした。 次の子には、自分では、懇切に配り方を教えてあげたつもりである。 かくて、10歳足らずでのきびしい実社会体験が終わったが、この 体験は、私のその後の人生に実に貴重なものを残してくれたようであ る。 仕事の厳しさがわかり、他人に対する思いやりの気持ちが持て、そ れに毎日長距離を小走りしたためについた耐久力など、苦労の中で得 たものも多かったように思われる。(完) (ページ目次へ)
世の中には、昔から賭け事というものが数々ある。違法なトバク から始まり、合法の競馬、競輪、競艇、パチンコ、さては、株の売買、 宝くじなど様々である。 賭け事というのは、一つの勝負事で、人の競争心を満足させるも のである。今でも、それにのめり込んでいる人も多かろう。その証拠 にパチンコ店は、大繁盛だし、株の取引、競馬など、打ち込んでいる 人を多く知っている。 しかしながら、私自身は、幸か不幸か、子供の頃に経験した失敗 からの、大きな心理的な打撃のために、ほとんどそれらに縁のない 人生となった。 × × × 日本が太平洋戦争に敗戦した1945年、私は、国民学校の6年生 だった。8月15日にポッダム宣言を受諾して、戦後すぐの混乱期と なった。もう戦争や空襲の不安がなかったが、人々は、戦災から 立ち直るのと食料の確保のために、日々躍起になっていた。 その秋、私の地方の鎮守の森でも、村祭りが例年のように催さ れた。しかし、祭りの出店などは、以前のような子供にとって楽し いオモチャの店などは、極めて少なかった。生産の復興が、まだ そこまで到っていなかった。 露店の殆どが、小さなカバン一つを低い台の上に置き、小さな 紙袋でクジを引かせる一人店であった。クジの箱の傍には、子供 が欲しがりそうなちょっとしたもの、望遠鏡とかハーモニカ、虫 メガネなどを並べてあった。 子供たちは、少ないながら小遣いを貰ってきているので、何か を買いたい。それで、そんなクジ引きの店にでも群がった。 しかし、その大人たちは、金儲けにきているので、クジは、なか なか当たらなかった。それで、一回50〜100円相当ぐらいだったか、 殆ど空クジで小遣いを巻き上げられた。 ヨレヨレの衣服を着たクジ屋は、時々は、補ったクジの紙袋の 中から、ここに当たりクジがあるよと選んで出し、子供たちに見せ た。そして、それは、当たりクジを取り除けるのと同時に、子供 の射幸心を誘うカラクリであったろう。実際は、当たりは皆無だっ たろう。 × × × そうした中に、陸軍の古い軍服を着た復員兵らしき人が、台 の上にタバコの箱を3つ載せ、あちこちと置き換え移動させてい た。 そして、その周りには、人々が取り巻いて、面白そうに金をは っていた。そして、当たった人は、他のハズレの人の金を全部貰 っていた。 子供の私は、大人の後ろからそれを覗いていたが、私が当た りと思ったものは、全て必ず当たった。何回やっても、当たった。 これはいけると、ちょっと生意気になりかけていた11歳で、 浅はかな世間知らずの子供心、私は、大人の間を急いで割って出 て、小遣いの持ち金全部を、当たりのタバコの箱にハッた。 そこにいる大人たちも、皆、私のハッタ箱にサッと申し合わ せたようにはった。 そして、その箱がひっくり返されたとたん、それはハズレの 空クジであった。私は、びっくり仰天した。それまで、全部が 当たりだったのに、なぜはずれたのか? とたんに、その大人たちは、サッと蜘蛛の子を散らすように バラけて、どこかに行ってしまった。後に、私がハッて金をとら れたことに気づいた近所の大人の人が残された。そして、大き な声で叱られた。「あんな人らの相手になったらアカンのやで」 呆然として立っている私は、何がなんだかわからず、ただ口 惜しいばかりであった。そして、その近所の人が、私の父母に 告げ口をしないかと、そればかり心配していた。幸いそれ はなく、家人には知られなかったので、叱られずにすんだ。 後で、教えられたのだが、あれはインチキ賭博といって、 ダマス仕組みになっており、客の振りをしている周りの大人達は、 サクラといって、皆仲間であるという。その時、「サクラ」とい う言葉を初めて聞いて、貴重な社会勉強になった。 世の中は、そんなことなのかと、田舎の無知な子供心に、 くじ引きやハッタハッタ賭博の実体を、痛い実習で初めて学び 取ったのである。 × × × 私は、その時は祭りの小遣いを巻き上げられただけであっ たが、大人になってからも、その子供心に受けた心理的な 痛手からどうしても抜けきれなかった。 幸か不幸か、家庭を持ってからも、射幸心を煽る賭け事系の ことは、恐れて嫌いになり、年配者になった今でも、あまりそ れに近づくことができない。 もしあの時、万一「当たり」で甘い目を見させてもらって あったら、その後の私は、どんな大人になっていただろうか。 子供の頃の「ケガの功名」のお蔭で、いろいろな賭け事にの めり込むことがなく、子育てなどの所帯盛りを、無事に乗り切 れたのじゃないかと、感謝の気持ちさえ持っている次第である。 (05.8.7) (ページ目次へ)
ようやく紀州でも梅雨が明けました。昨日から真夏らしい天気です。 それにしても、土用だと言うのに今夏の朝晩は、割と気温が低く、しのぎ 安いですね。 昨日は、早速フトンを乾しました。梅雨の長雨にボトボトと湿いた感じ でしたので、夜さっぱりして、気持ちが良かったです。やはり、土用の 虫干しと昔からよく言ったものです。 * * * 私達の子供の頃、戦争中でしたが(1940年代)、梅雨が開けたころの土用 の暑い日に、行政の指導命令もああって、年中行事で家の大掃除をしました。 一家総出で一日がかりで掃除をしたのを思い出します。他の地方でも同じよ うにしたのでしょうかね。 和歌山県では、掃除の状況を巡査が見回って来るとかいう話でした。サ ーベルを腰にぶらさげた巡査は、見るからに怖い感じで、夏、裸でいると 叱られるなど、子供達もびくびくしていました。 大掃除のことを「煤掃き」とも言いました。家中の煤や蜘蛛の巣などを 掃くのはもちろん、床の下の土間を這って掃除をする。重い畳を全部、表 庭に運び出して乾し、パンパンと棒で叩いてホコリをとる。これは、力の 弱い子供には、なかなかの重労働でした。そのホコリの煙が今でも目に浮 かびます。 * * * その掃除をしないと、私の育った農家では、蚤、しらみ、ダニ、蚊の攻 勢で夜まともに眠れなかったですね。蚊は、蚊帳(これがまた中が暑い) を吊ればどうにかなったが、蚤などだけは、どうしようもなかったです。 ついでですが、昔の農家は、必ず牛を(最低一匹)飼っていて、いろい ろな荷役や田畑の耕作に使っていました。牛は、ほんと家族同然でしたね。 牛の飼料は、毎日、絶対に必要でした。刈り取ってきた青草か保存して いる稲藁を小切って与えるかしました。家の炊事の残菜や食器を洗った水は 捨てずに、雑水バケツに溜めておいて、牛に与えました。 農家の主は、早朝から夕方まで、何よりも先ず牛の飼料の世話などをしな ければ、一日の仕事を終れませんでした。それは、何を措いても必要な、年 中続く毎日のきつい仕事だったのです。農繁期などには、特に牛に栄養価の 高い麦などを食べさせました。 その牛小屋というのが、また蚊などの絶好の繁殖場所で、夏のころは、 牛の小屋や糞尿(重要な肥料)の溜め場(人間のトイレも同じ)には、蚊が 群れをなしていて、壮観でした。父は、何かを燃やし煙で追っ払っていたこ とがありますが、効き目は少なかったです。 * * * 大掃除は、必ず家族全員参加で、丸一日かかったように思います。皆、 顔が煤だらけで、真っ黒でした。終わったあと、私ら子供は、急いで川に 泳ぎに行って、汚れを落としたものです。 今は、農村でもまともに大掃除をしなくなったようですね。したほうがよ いのでしょうが、、、、、、、蚤、虱がいなくなったし(ダニはどうかな)、 蚊(家の窓に網をしている)を防げるので、つい怠けているようです。 ちょっと子供の頃の、一家総出でした夏の土用の大掃除を思い出してみま した。(07.7.27) (ページ目次へ)