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| 1 | 子供時代(1938〜47年頃)終戦(敗戦)の日・終戦直後のこと ・盆踊り ・ 慰安会・和歌山県伊都郡地方の「希望の会」楽団と その記念誌のことなど (参考)高野口町高齢者福祉大会 |
| 2 | @敗戦直後の学校 A 続敗戦直後の学校 B.戦後の新学制と混乱・旧伊都中学の最後の生徒達と同級会 C続戦後の新学制と混乱 D新制中学校 |
| 3 | @橋本市老連すこやか交流会のショー |
| 4 | 未記入 |
| 5 | 未記入 |
.太平洋戦争の終戦(敗戦)の日、 1945年8月15日 1941年末からの太平洋戦争が1945年8月15日、敗戦で終わったとき、私は、国民学校 6年生で、皆と同様に銃後の戦いの軍国少年でした。 私自身は、田舎住まいの子供で、直接従軍したり、戦災に遭ったりして命の危険に さらされはしなかったですが、もう少し戦争が長引いておれば、どんな目にあったかも しれません。 敗戦の天皇の放送を家のラジオで聞きましたが、雑音が多くて、内容がわかりません でした。ただ、生き神である天皇の直接の放送だというので、異常なことと思いました。 負けるなどとは思わず、国民が一致団結して国難にあたれ、「神風」がもうすぐ吹く から、と国民を鼓舞しているのかとおもいました。その頃、大人は皆、いつ神風が吹く のかと言っていましたからね、、、、、今から思えば、おめでたいことですが。 〜 〜 〜 明朝、新聞に大きく「大東亜戦争が終結」とあって、ああ、戦争が終わったのかと知 らされました。結局、負けたのだと大人の人達が言っておるので、私もわかりました。 神風は、結局は、吹かなかったのです。あれくらい、私達が神社へ度々参って(米英 に対し戦争を仕掛けた日の毎月8日には、児童生徒全員が神社に集合)、必勝を祈願し 続けたのに、全然ダメだったのです。 鎌倉時代の蒙古軍の襲来のとき、偶然に台風がうまく来たように、決定的な逆襲援軍 は、遂に来なかったのです。かえって、原爆のような新型爆弾の実験場にまでされてし まいました。 今から思えば、あの激しい敵襲に対して、神頼みは滑稽なことですが、国家神道、官 幣大社の威力も、まあ、そんな程度のものだったのです。 当時の日本人の思考傾向は、大体そんなものでした。 〜 〜 〜 長い鎖国時代をやっていて、やっと開国した日本人と違い、早くから海外へと発展し、 すでに帝国主義時代の植民地分割も大体終わっていた欧米人に、また、ヒューマニズム (人本主義)を根底に持ち、合理的、科学的な思考傾向の欧米人に、無謀にも戦争をし かけ、そして全面的に負けたといえるでしょう。 武力での敗北は、勿論なのですが、つまりは、文化的な敗北なのです。 戦争遂行の中心となった軍人指導者について言えば、戦陣訓に典型的に表れている ように、上級軍人達に強かった人命軽視の傾向、非合理的な思考形式、精神主義、立身 出世主義からの尊大な傾向などは、軍の崩壊を招いて当然の成り行きでした。 中でも、前線で優勢な敵襲に対して、部下を見殺しにして上部指揮官らが飛行機など で先に逃げ去ることが、よくあったとかで、日本の軍部は、相当に腐敗が進んでいたよ うです。 そして、あの日本の旧陸海軍が、仮にたとえそのまま残されていたとしても、その 非合理的な、また、非情な思考形式から、いつかは、自己崩壊をする運命にあったと考 えられます。 その意味からは、その後のいろいろな諸改革を考えるならば、敗戦は、無謀の瓢箪か らコマの、外圧による日本の改革、第二の開国と言えるでしょう。 (06.8.15) (ページ目次)
終戦直後のこと・盆踊り・慰安会など 日本は、満州事変以来、十五年戦争(1931〜45)と呼ばれる戦争状態 にあって、国民に戦争遂行のための緊張を強いてきた。特に、敗戦の壊滅 に至る終わりの5年間(1941〜45)は、その緊張感が極限に達していた。 「人は、パンのみにて生くるにあらず」のように、「欲しがりません、 勝つまでは」で、いろんな欲求を抑え込んだままでは、いつまでも生きて いけるものではない。 その欲求が、1945年8月15日の敗戦とともに爆発した。一般的に全ての 日本人にそれがあったであろうが、私達子供の目からは、私らより少し年 上の若い青年たちのが、一番強烈であったようである。 敗戦の廃墟の中で、あらゆる物資が不足していた。社会状勢も不安定で、 いつ何どき盗みに入られたり、強盗に襲われたりするか知れなかった。 しかし、もう戦争の恐怖がなかった。食糧は不足気味だったが、もはや 空襲や徴兵がなかった。灯火管制もなく、赤紙も来なかった。 盆踊り とたんに、人々は、8月の夏の暑い宵に、長らく忘れていた「盆踊り」 を思い出した。何となく青年や子供達は、寺や神社の広場で打ち鳴らされる 太鼓の音につられて、ほの暗い中を大勢集まってきた。 そして、喉自慢の大人の人々が思い出し唄う土地の盆踊り唄に合わせ、こ れまた、かろうじて覚えていた大人たちの盆踊りを真似て、踊りだした。 始めは、青年や子供達は、見知らぬ踊りを踊る大人たちの地踊りの小さい 輪を眺めていたが、やがて知らぬ間に、それを真似て懸命に踊り出した。 そして、2日目ともなると、さも得意げに、とうの昔から知っていたかのよ うな、身振り手振りで得意げに踊っていた。 音頭取りの大人たちは、唄うにつれ昔の歌詞や節回しを次々と思い出し、 マイクも何もない大きな地声で、太鼓に合わせて音頭をとった。踊る者達は、 それに負けじと、大きな声で「合いの手」をいれた。「ヤットコ、サノサノ、 ヨイヤサノセー!」。 よく見ると、青年たちの中には、顔を隠して女装で踊っている者もいた。 子供の私に、それが奇異な印象を与えなかったのは、どういうわけであったの か。それほど、人々の心が解放感に満ち,また娯楽に飢えていたと言えよう。 (ページ目次) 慰安会 終戦直後、私の育った地方(和歌山県九度山町)では、青年達を中心にし て盛んに慰安会というのが催された。それは、学校の舞台や選果場(農家が 共同で柿やミカンを選果して、出荷するための大きな建物)の仮設舞台で地 域の人たちを集めて催された演芸会のことである。 戦争中に抑圧されていた娯楽への欲求が、一時に爆発したのは、前記の盆 踊りも同様であるが、これは、地域の青年達の芸能的表現の欲求と一般の人 たちの娯楽を求める欲求が、見事に一致した催しと言える。 * * * 人々は、長い戦争の期間、自由に唄ったり、踊ったり、演じたり、面白が って笑いこけるということがなかった。戦いという緊張感から解放されるや、 その反動で何でもよい楽しいことをしたり、見たりしたくなった。 特にその多感な青春期を、戦時の兵役や軍需生産、学校からの動員、軍事 教練などに押し込められ、緊張を続けてきた村の青年達は、その解放感が極 めて大きかった。 同じ青年団の仲間の多くが、戦場にいったまま戦死してしまった中で、幸い にして村に帰ってきた者達は、その若さで皆が見事にまとまり、慰安会という 形で、その抑圧されていた気持ちを発散し、演芸へのすばらしい能力を発揮し だした。 〜 〜 〜 知らぬ間に、どこかからギターが、アコーデオンが、ハーモニカが持ち出さ れて演奏が始まった。またその伴奏に合わせて唄う歌手が大勢、舞台に現れた。 青年達は、チョンマゲカツラや三度笠、回し合羽や刀をどこからか引っ張り 出してきては、時代劇の芝居を一生懸命に練習し「森の石松」などを見事に演 じた。 村の観客達は、板間や土間にムシロを敷いただけの席で、青年たち が舞台で 繰り広げる歌謡ショーや演劇や漫才に、長らく忘れていた久し振りの演芸の楽し みを味わった。 + + + この種の慰安会は、終戦後から相当長い間、続けられたように記憶する。そ の後、復興が進むにつれて、徐々にプロの芸能劇団が芝居小屋に来るようになり、 また映画上映が盛んになり、素人の青年達の慰安会も次第に姿を消していった。 しかし、終戦間際の、あの青年達の熱気あふれる演芸の盛り上がりが見られた 慰安会の素晴らしさを、私は到底忘れることができない。 (ページ目次) ・ ・ ・ 和歌山県伊都郡地方の「希望の会」楽団とその記念誌 (終戦直後に当地方で大活躍した「希望の会」につき、最近、その記憶が消 ないうちに、いろんな人の記憶を集め、記念誌を作る計画があるという話 を聞きました。それで、私も、急遽、子供の頃の感動の記憶を書き留め、そ の記念誌に投稿させていただくことにしました。以下は、拙文ながら、その 原稿の写しです。) 〜 〜 〜 〜 〜 終戦(1945年)直後、当地方の青年達が催した慰安会の部類に入るものと して、ここに「希望の会」という楽団のことを、私の記憶の範囲で書き留め ておきたい。 敗戦で戦争が終わって、私たちの住む田舎の町では、娯楽的なものは、殆 どなかった。今のように、テレビ、映画、ラジオなどからの、あふれるよう な娯楽の洪水の時代とは、雲泥の差、皆、敗戦後の食糧不足など諸物資の 不足で、その日の生活にあえいでいた。 そんな折に、九度山国民(小)学校の講堂で、時々、映画や慰安会が催され たが、楽団演奏があるというフレ込みがあり、子供の私達も、大勢の町民と 一緒に講堂に集まった。 皆、数年間に渡る戦争の緊張から開放されて、人間が欲っする娯楽に飢 え、それを強く求めていたのである。 そのとき、舞台で見た青年達楽団の、今までに見たこともない颯爽とし た姿とその華やかな演奏に目や耳を疑った。 当時、子供の私が知っている楽器は、ピアノ、ギター、ハーモニカ、トラ ンペット、ヴァイオリンぐらいなものであった。ところが、田舎では見たこ ともない大きなベースやマラカスなどを巧みにあやつり、主に戦前の歌謡曲 やタンゴなどの曲だったと思うが、華やかな演奏が始まった。 数人の歌い手が次々と舞台に現れ、とても上手に唄をうたった。その夢の ような饗宴に、生来、唄好きな子供の私は、すっかり酔ってしまった。 〜 〜 〜 思うに、あの青年たちの大部分は、私より10歳以上年上の人達ばかりで、 戦争中は、兵士などとして召集されていた者が多かったであろう。 だが、幸い戦死を免れ、無事に帰ってきた者たちであった。彼らは、太平洋 戦争が始まる前の時代(1941年12月以前)を知っていた。その頃に、好きな音 楽に触れ、楽器も練習してあったのであろう。 激しい戦いの時代には、好きな音楽などは、殆どやれなかっただろうが、戦 後、ようやく同好の者達が集まり、遠慮なしに楽しめるようになったのである。 私は、彼らの演奏を、2度ばかり聞かせてもらっただけであるが、多分、あ の敗戦の殺風景な時代に、当地方のあちこちで演奏会を開いて、楽しいことに 飢えていた大勢の人達に、夢の世界のような楽しみや希望を与えてくれたと聞 いている。 ここに、60年余り以前、子供の私らを含め、戦いに疲れ果てていた人達に、 「生きる希望」を与えてれくた「希望の会」楽団の青年達(もう他界され方が多 いだろうが)に、心から御礼を申し上げ、また他界された方には、心からご冥 福をお祈りする次第である。 (06.7.27) + + + + + なお、他の人の話を聞いて思い出したことことであるが、終戦後に当地方で は、青年たちが盛んに社交ダンスなるものを踊っていたことを、子供の私も噂 に聞いていた。 実は、私のすぐ上の姉も、近所の青年達と一緒によくダンスに行っていた。 そのダンス・パーティの音楽演奏を、当「希望の会」楽団がおこなっていた そうである。 私は、生憎、一度もそのダンス・パーティなるものを見ていないので、そ の場景をここに描けないが 、彼らの楽しい雰囲気が想像できる。さぞ華や かなものであったろう。 音楽あってのダンスである。戦後の社交ダンスブームの原動力になったの は、やはり結局は、あの「希望の会」の音楽である。 私も、学生時代から、次第に社交ダンスや歌に関心を深めていって、現在 に至っているのであるが、それも、子供の頃に噂に聞いていた当地のダンス ブ−ムから与えられた好奇心が、その底流にあったような気がする。 、 その意味からすれば、戦後以来の当地の音楽やダンス文化の発展の基を作っ たのは、あの会の青年たちと言えるであろう。 私達は、彼らの戦後の素晴らしい活躍を長年忘れていて、その文化の貢献に 対する顕彰を今までしてこなかった。今回、記念誌の発刊の報に接し、ここ にささやかながら拙文をしたため、彼らの功労を称え、感謝する次第である。 (06.7.31) 〜 〜 〜 〜 〜 前述の記念誌が「暗夜に灯火を掲げてーー追想・希望の会」と題して、 平成19(2007)年5月10日に発行された。発行人及び問い合わせ先、 大高和子様(和歌山県九度山町九度山)。 当地方の関係者に配布され、また図書館などに寄贈されるから、是非ご一読く ださい。当時の懐かしい写真や多数の方の思い出の記録が載せられています。 (07.5.24) (ページ目次) 高野口町高齢者福祉大会 余談になるが、今年(2004)7月、高野口町高齢者福祉大会で、 町の年配者の有志達が演じた舞台での演芸の出し物の数々は、ひょっ とあの終戦直後の青年達の演芸の爆発を思い出させた。 (福祉大会の写真集) 人間は、「風にそよぐ一本の葦の如く、か弱い生き物」(パスカル) であるが、その内に秘めた潜在能力には、年齢に関係なく素晴らしい ものがある。そして時と場所を与えられれば、それが見事に花開くも のである。 私の子供の頃の、あの青年たちの慰安会での輝き、それに、今年 の我々、年配者たちが演じた当町の福祉大会の素晴らしさ、楽しさに、 私は、人間への限りない価値と愛おしさを感じた。 関連して、過去の戦いで、非業の死を遂げた無数の人々の無駄に 消された人生とその能力を、心から惜しむものである。 (関連のページ) (完) (目次)
昭和20(1945)年8月15日、日本政府は、太平洋戦争の敗戦をようや
く認めた。学校は、夏休みの最中で、9月の新学期から戦後の学校教育
となった。
さて、諸学校の教育内容をどうするか、敗戦の虚脱状態の中で、文
部省や県教育関係者は、その対応に追われたであろう。とにかく、連
合国(主に米)の占領軍の命令も踏まえて、それまでの戦時体制の教育
を全面的に変えなければならなかった。
新教科書なんて、もちろん間に合わない。それで、今までの教科書を
使うとすればどうするか。つい昨日まで、先生が私達に熱心に教てくれ
ていた、忠君愛国、神話を史実かの如く扱った歴史、滅私報国などの内
容を含む教材にスミを塗って消してしまえであった。
特に、国語(歴史、地理、修身等は、授業時間そのものがなし)の教
科書が中心であったが、とにかく、その分量の多いこと。墨で真っ黒に
なった教科書なんて、勉強できるような雰囲気じゃない。子供達の頭の
なかの混乱振りは、お察しがつこう。詳細を覚えていないが、大体は、
そんな状態であった。
しかし、まあ、私らの田舎の学校は、都会の空襲で焼かれてしまった
学校に比べ、校舎が残っただけでも幸いであった。もう少し戦争が長引
き、学校に焼夷弾でも数発落されでもしていたら、当時の木造校舎は、
全焼間違いなかったのである。米軍が、戦略の段階があったであろうが、
田舎の学校などを攻撃しなかったのは、敵ながら立派な配慮と感謝しな
ければならない。
集団疎開の子供達は、夏休み中に帰ってしまっていた。大阪市の阿倍
野区あたりは、戦災を免れた家が多かったので、帰宅が問題ではなかっ
たのは、幸いであった。
(参照)阿倍野区からの学童集団疎開
個人で疎開に来ていた子供達も、多数が9月には、もう姿を見せなかっ
た。
サツマイモ畑になっていた運動場が、早速ならされて、デモボコだが、
一応運動場として復活した。子供達は、いち早く野球というボール遊び
などを始めた。
新教科書が、新聞紙のようなもので児童生徒に配布されたのは、その
次の年(1946年)の4月に新学年が始まってからであった。私は、その時
は、旧制の中学1年生になっていたが、一枚紙を配られる毎に、ちゃんと
製本すべく小さく切り分け、表紙をつけて、自分なりの教科書を作った。
それも、全部の教科ではなくて、国語、英語、数学、理科等だけであり、
またその教科の一部であったと記憶する。
それ以外の教科は、先生が全て板書で授業を進めた。
(目次)
さて、昭和21(1946)年度は、私が旧制中学1年生のときであるが、混乱 の中にも何とか従来の体制で教育が進められた。先生も生徒も戦時体制から の急な変化のために、皆落ち着かないところがありはしたが、戦時の気風を 残しながらも、新しい平和な時代の雰囲気があらわれていた。 例えば、前の年までやかましく言われた生徒のゲートル巻きや、上級生へ の挙手の敬礼、剣道などの武術や教練などは、ガラリと無くなっていた。上 級生の下級生に対する制裁(タコつり)も多少残っていたが、以前よりもグ ンと減っていた。 まともな教科書がなく、上級生の使った教科書を借りてきて、スミを塗っ てしばらくは用をすませた。大部分は、先生が板書で授業を進め、私らはそ れを懸命に写した。 剣道の先生は、教科が無くなり、自分らに国語を教えてくれた。公民科で は、とりあえず新憲法の学習が始まった。 しばらくして、新聞紙一枚ぐらいの大きさに印刷した教科書用紙が配られ、 生徒らは、それを切り、綴じて自分なりの教科書を作った。国、数、英など であったと思う。 しかし、サツマイモ弁当日というのがあり、もし違反すると先生に叱られ た。これは、戦時中の日の丸(梅干)弁当の名残であったようである。 このような状況にありながらも、従来の勉強に熱心な旧制伊都中学の伝統 を受け継ぎ、学習やクラブ活動の活発な雰囲気が上級生全般に見られ、下級 生の私らもその影響を受け、刺激されるところが多かった。 (ページ目次)
.1945年8月15日の敗戦による大混乱の中で、教育面でなされた明治以来 の学校制度の変革は、国民生活に与えた点からいえば、その規模や影響が 極めて大きい特筆すべきものであった。 明治維新以後、日本国民自身の手で新学校制度が導入され、改革がなさ れてきたことは、確かであるが、それは徐々に段階を追って行われてきた。 その時代の要請に応じて、改良が重ねられ、その敗戦時まで日本社会に 定着し、成果を上げてきていた。 それを、未曾有の敗戦により、日本国民が喪失感を味わっている虚脱状 態の中で、日本の伝統を一挙に破壊し変革しようとする米占領軍の命令 により、アメリカでもまだ実験段階にあったような6334の学校制度を 乏しいドン底の財政状態の中で実施しなければならなかった。 その混乱状態は、教育関係者や生徒はもちろん、国や地方公共団体を巻 き込んで実に恐ろしいような状況であった。そして、占領軍の統治の仕方 にも、府県別に色合いが違ったようで、和歌山県などは、特に日本の軍国 主義の早急な一掃という使命感にあふれた純真な米軍人の命令により、旧 制中等学校の徹底した破壊など、容赦のない強力な変革が実行された。 その意味からいえば、その変革は、第二の敗戦とも言えるものであった。 (ページ目次) ・ ・ ・ ・ ・ さて、旧制中学の2年生(1947年)になるや、その年から新学制の施行 とかで、全国一斉に新制の中学と高校が作られた。わが校は、新制の高 校とそれに併設の新制中学に分けよという命令であった。 本来、中学4、5年になるべき生徒は、高校1,2年生となり、中学を卒 業するべき生徒は、高校卒資格がほしければ、も一年高校3年生をやれ、 ということになった。 それに、旧制の中学や女学校、農工商の中等学校は、全部廃止され、 全て高校になり、特に和歌山県では、男女共学、学区制などが厳格に実 施された。 和歌山市の学校では、名称さえ全て変えよということになり、伝統あ る学校名も惜しげもなく変えなければならなかった。 わが伊都中学も、粉川中学と共に廃校の俎上に上っていたが、先生 などの強い要請により、ようやく高校として残されることになった。その とき、旧制粉川中学は、廃校となり、長きよき伝統が途切れたどころでは なく、校舎さえも新制の中学校に明渡さざるをえなくされた。そして、 生徒達は、旧制粉川高等女学校の校舎に開校した新制高校に移った。 当然、旧伊都中学生は、ばらばらに別れ、近辺の新制の高校に移った。 それで、我々、伊都中学の2、3年生は、併設中学の名称のもとに、新制中 学生として、ようやく同じ校舎に置いてもらえた。まだその年度は、各地の 新制中学への強制送還は免れた。 さて、昭和22年(1947)度は、そんなややこしい雰囲気の中での学習で あった。全体として落ち着かず、先生方も、給料が貨幣価値の下落とともに 安くなり、生活すれすれの気の毒な状態であった。そんなことで、優秀な先 生でも辞めて転職する、栄養状態が総体に悪くて、結核などで早世される 方も出るとかで、戦争の後遺症があちこちに出ていた。 また、先生の中には、新制中学、高校などに転出する方も出てきて、 職員の異動が激しかった。 教科書は、ようやく新方式のものが製本されて配布された。その点では、 前の中学1年のときより、はるかに整った授業を受けることができた。生徒 達は、いろいろ噂のでる落ち着きのない雰囲気の中であったが、まあ、学 習面では、真面目に取り組んだと思う。 そうして、その次ぎの年度には、級友の皆が、バラバラになって別れな ければならいとは、夢にも思っていなかった。(05.12.28) 〜 〜 〜 〜 〜 旧制伊都中学の最後の生徒達(昭和21年4月入学、26期生)の 同級会が、2006年5月に実現しそうである。発起人が十数人集まり、 名簿の作成や訂正などをしてくれ、平成18年5月14日(日)、橋本市で 開催される見通しとなった。 突然にバラバラに別れて、3年生を復帰生として地元の新制中学でや り、後に、主に地元の橋本、伊都、笠田の高校やその他の和工などの 実業高校などに別れて進学したので、その後は、あまり交友の機会がな かったが、ようやく60年後にして再会するというわけである。 すでに他界された先生方や旧友も多数おり、淋しい次第であるが、よう やく旧交を温められることになった。その機会を作ってくれる世話人(私も 一員に加えられたが)の方々に、心から御礼を申しあげたい。(06.2.17) * * * 同期生45名、恩師1先生の出席を得て、予定通り開催された。皆々 懐かしい思い出話に時間を忘れるほどであった。思い出の校歌を斉唱した 後、また2年後に同様の同期会を開くという約束をし、元気で再会する ことを期して散会した。 (06.5月末) 再会を約した2回目の26期同期会が平成20(2008)年3月23日(日) に大阪南で開かれることになり、案内書が発送される手はずが整っている。 物故者も多数出ている遅い開催ではあるが、時代の荒波にもまれ、止む無 く散らばった世代として、旧交を温められる機会を得たことは、誠に嬉しい 限りである。発起された世話人の方々には、感謝、感謝である。 参加可能な、元気にしている旧友達は、万障繰り合わせ参加して欲しいも のである。(07.12.8) (ページ目次)
私が、昭和22(1947)度で旧制中学2年を終わろうとしていた頃であ ったが、突然、担任の先生から、この4月から皆さんは、出身町村の新制 中学に戻り、3年生に入るようにと言われた。 最初、何のことだかよくわからなかったが、次第に事の次第がわかって きた。新学制で、全てが変わり、元のところへ「復帰」せよということら しかった。 何で今更と思うも、これは米占領軍(進駐軍)の命令であるという。和 歌山県では、全県下の旧制中等学校の新3年生全員に対する絶対的な命令で あったらしい。(他府県では、そうでないところも多かったそうである) 私たちは、敗戦後の虚脱状態もあり、抵抗しても仕方ないので止む無く それに従わざるをえなかった。12、3歳くらいであったか、せっかく旧伊都 中学での勉強が落ち着きを取り戻し、軌道に乗ってきていたのに、今更なん で、という腹立たしい気持ちは、皆が持ったと思う。 中には、村の新制中学へ行くのを拒み、隣の奈良県の中学校へ進んだ学 友もいた。奈良県は、和歌山県ほど厳しくなく、新制高校の併設中学3年生 として進級させたらしい。また、他府県では、男女共学も、そう厳格なもの でなかったと聞いている。 そうして4月から、新制中学での混乱した滅茶苦茶な3年生が始まるの であるが、この命令も、敗戦国の惨めさの一部として、少年の私達が舐めさ せられた苦杯であったといえよう。 (ページ目次) D新制中学の設置 敗戦の混乱の中で、急な教育制度の改革が実施に移され、それを命令に より実行しなければならない地方の市町村は、財政の窮乏の中でも、とにか く何らかの形をつけなければならなくなった。 新制の高校は、旧制の中等学校の校舎を使い発足したので、施設も教職 員もそれを受けつでいけばよかったので、割合に楽であった。 しかし、男子校、女子校の別があったので、その共学制の強行は、施設面 でいずれも改増築をしなければならなかった。しかし、それは、新制中学に 比べれば、はるかに楽な移行であった。 ・ ・ ・ ・ ・ 3年制の新制中学は、それまでの国民学校とは、全然別個の独立した新学校 であり、その高等科をそのまま移行させてよいというものではなかった。 (参照)「九度山小学校の歴史」の1941〜1946年部分 それで、自治体によっては、別の廃校した空いた学校があれば、都合よく その校舎を利用できた。しかし、大部分の市町村は、新しく、学校の新築を しなければならなかった。あの敗戦後3年目の貧乏のドン底である。皆、衣 食がやっとと言う時代、いかにその新設に苦しんだか、想像してほしい。 ましてや、戦災で丸焼けになったような都会の自治体は、その狼狽ぶり は、大変なものであったろう。 〜 〜 〜 新制中学3年生 旧制の中等学校2年に通学していた者に、九度山小学校に併設されて開校し ていた中学3年に編入するべく登校せよという通知がきた。我々は、懐かし い小学校の校舎にに登校することになった。(1948年4月) いろんな旧中等学校(中学、高等女学校、農林、商業、工業などの学校)に 進んでいた旧友の顔も見え、懐かしい限り。しかし皆、一種、あきらめ顔で あった。中には、普通だと卒業しているような学年の上に当るような人も見 え、制度の改革の不公平さを感じさせられた。 しばらくして、記念館の前に集まれということであった。見ると旧陸軍士 官学校の生徒の軍服を着た先生らしき青年がいろいろ指図している。それが、 後に我々の担任になるN先生という青年教師であった。 軍隊の 隊長が部下に訓示しているような調子は、やはり戦時色をまだ残し ている雰囲気であった。 とにかく、新3年生は、生徒数も急に増え、どうやら、それまでのように小 学校の教室を間借りするわけにも行かず、記念館(小さな講堂みたいな建物) で午前、午後の2部授業をせざるをえない、ということであった。 〜 〜 〜 昭和23(1948)年度、九中第3学年(第2期生)が、やっと明神が丘の木造 新校舎(3教室)に入った。それも、2学期から。一学期は、小学校上の記 念館(今はなし)で午前午後の2部授業。その惨めさは、想像におまかせす る。 戦後すぐの63制開始の混乱の時代で、授業も落ち着かず。小学校の校舎で 間借りの1,2年生がまだいた。両校舎を先生生徒らが行ったり来たり。今の 整った校舎とは、雲泥の差。谷向かい小学校の運動場から、先生が呼ぶ、 「オーイ、集会に早く来い!」エンコラヤと生徒らが走る、、、来るのがオ ソイと目玉が待っている。 明神さんの校舎の敷地は、ならしただけ。斜面がまだ土のままで、そこを 滑り降りて遊ぶ。下は、一面に田圃、稲穂がゆらゆら。そこが、今の運動場。 もちろん、われわれは、向かい小学校の運動場を間借り。 それでも1、2年生は、瓦運びなど新校舎作りに精を出したのに自分らが入 れず、3年が先で、口惜しかったそう。その木造校舎も今は、無し。
以下は、交流会で演ずる、私たちのグループのショーの「語り」の部分です。 (他にもいろいろあります。) 唄に合わせて、踊りなどをまじえ、苦労して演技をしますが、どんな舞台にな るか、想像してみてくださーい。(^-^) 〜 〜 〜 (本番の前) さあ、皆さん、これは、私たちの心の中に、懐かしく残っている、思い出の 風景を、唄にもとづいて綴る「ショー」なのです。 私たちの育った時代は、内外に甚大な被害を与えた太平洋戦争など、戦争 を抜きにしては、決して語れません。 激しい戦争の時代を乗り越え、苦しいながらも明るかった戦後、思えば、 長い道のりでした、、、、、、、、 さあ、早速ショーを始めましょう。 (すぐ続けて)1.「赤トンボ」2.「二人は若い」と、戦前の、友と仲良く遊んだ 子供時代、次いで、戦争で兵隊に取られる前の幸せな新婚さんの風景と続きます。 (音楽演奏が始まる)(終わるとすぐ次に。前奏にかかっても可。以下同じ)
...
(3「露営の歌」の前) 「勝って来るぞと勇ましく」、大勢の父、兄、夫、子供が戦争にかり出され、戦い の中で死んでゆきました。
...
(4「九段の母」の前) やがて、息子や夫を戦争で失った大勢の母が妻が残されました。年老いた母は、 杖をついて、戦死した息子に逢うために、靖国神社にやってきました。
...
(5「かえり船」の前) 遂には、惨めな敗戦。戦いに敗れ、やっと生き残った者たちは、よれよれに なって復員兵や引揚げ者となり、懐かしい故国に帰ってきました。
(懐かしい故国が見えた)(この写真は、玉井準一郎氏の撮影によります。ありがとう。)
(6.「リンゴの唄」) さあ、戦後となりました。苦しいながらも、戦争のない時代、復興の時代が やってきたのです。どこからか、明るいリンゴの唄が聞こえてきますよ、、、、、、、、(7.「これから音頭」の前) 戦後、60年あまり、私たちは、今まで、一生懸命に働いてきましたが、人生 は、まだ、これからです。みんな一緒になって、この唄のように、仲良くすこや かに生きていきましょう。
(最終の礼のとき) 最後まで、見ていただいて、ありがとう、ありがとう。 ( 文責、当HP管理人)(06.9.23) (ページ目次) 関連のページ 日記6.... 発言3


