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正月閑話 「笑 門」 平成16年正月 私は晩秋の風景が大好きだ。いろいろな木の葉が思いくの色に変わりながら、道を染めていくのを見ていると心が和む。ゴミに なって汚いという人もいるが、それは多分、舗装された道路には似合わないという事だろう。言い換えれば、尖ってしまった世情と 人の心には、受け容れがたい華やかさなのかもしれない。道路脇にある櫨の木も、自宅の紅葉も目を楽しませてくれた。 そんな秋が去ると、私も人並みに慌ただしい師走を迎え、五十六回目の正月を迎えることができた。 日常の生活が便利になれば、引き替えに失われるものも多い。パソコンとテレビと電話が一体化している時代である。携帯電 話が普及し、その利用法もメールに人気があるようだ。電子文字には感情がないから、顔文字なるものも随分沢山ある。昔が良 かったなどと言うつもりはない。パソコンの恩恵にも十分浴している。ここ三年ほどの正月休みの楽しみは、表計算ソフト作成コ ンテストに応募することなのだから。 しかしパソコンは、老若男女が頭を突き合わせて楽しむには多少無理がある。その点カルタ遊びは手軽な道具だったように思 う。最近の子供は「いろはかるた」なんて知っているのだろうか。いや、もし知っていても、パソコンでかるた遊びをするにはどうし たら良いか、なんて考えるかもしれない。 「伊呂波歌留多」は江戸時代後期に、庶民の遊びとして生まれたものといわれている。上方のものと江戸のものに大別され、こ れ以外にも幾つかあったらしい。また、私の子供の頃に使ったものは、江戸と上方を適度に混ぜてあったようだ。絵札と文字札 がともに四十八枚で、教訓が遊びを通して教えられるようになっていた。子供も少し大きくなると、その意味を親に尋ねるようにな る。親もおちおちしてはいられない遊びだった。 ◎犬も歩けば棒にあたる(江戸) ◎論語読みの論語知らず(上方) ◎泣きっ面に蜂(江戸) ◎旅は道連れ世は情け(江戸) ◎袖すりあうも他生の縁(上方) ◎蒔かぬ種は生えぬ(上方) ◎子はかすがい(江戸) ◎頭隠して尻隠さず(江戸)など懐かしい言葉が続く。 そういえばこれを忘れていた。 ◎笑う門には福来たる (上方) これを四字熟語風に書けば「笑門来福」になる。この話になると、自分の恥をさらさないといけない。 私は、昨年の春に伊勢へ秋には出雲へ、自宅から自転車でワンディファストランをした。伊勢本街道(R369)を走って三重県に 入ったとき、一軒のお宅の玄関にしめ縄が飾ってあるのが目についた。堂々と重々しくて注連縄と書くのがふさわしく感じられる。 そのしめ縄に木札が付いていて「笑門」と書かれている。じっと覗き込んでいるわけにもいかなかったが、家族の名前も書いて あったように思う。自転車で走りながら「なるほど、笑う門には福来たるだな」と納得し、地域によってしめ縄にも色々あるのだと思 っていた。 ところが、この笑門は全く別の意味だということが判った。この地方のしめ縄は伊勢に伝わる伝説から生まれた風習なのだ。 それはこうだ。スサノオの命が宿が無くて困っている時、蘇民将来という親切な人の家に泊めてもらうことが出来た。彼はスサノ オの命から厄除けの法を授けられ、神になったという。以来、伊勢近辺ではこの神の子孫である証に、「蘇民将来子孫家門」と書 いた門符を掲げて、無病息災を願うようになった。「蘇民将来子孫家門」は将門と縮められ、更に「笑門」に変化したものといわれ ている。 笑う門ではなかったのだ。そう判っても尚、笑う門には福来たると読んでも良いような気がするのは何故だろう。 このご時世どこの家庭でも、心から笑えることは少ないかも知れない。しかし、笑いというものが健康に良いのも事実だし、笑わ ないより笑っている方が福が来そうな気もする。さまざまなことに感謝しつつ、笑いを忘れないようにして、福を授かりたいものだ と思う。
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